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3.11

外国人の震災体験談

〜「私はその時、どこにいて、何をしていたか」〜


株式会社ジープラス・メディア(本社:東京都港区、代表取締役:ピーター・ウィルソン)は、2011年3月11日に起きた東日本大震災に対する外国人の思いや体験談を募集し、外国人向け英語ポータルサイト『ガイジンポット』のサイト上で紹介しております。(一部、過去に日本に滞在した経験のある方からのメッセージも含まれます。)

実際に東北地方で復興活動を行った外国人、震災時の日本人の優しさに心を打たれて医者になって恩返ししようと決めた外国人など、日本を愛するたくさんの外国人の東日本大震災を実際に経験した時の出来事や思いを下記ページよりご覧いただけます。

彼らの体験談や思いを通して、彼ら自身が強くなって前向きになれたこと、震災に負けずに段々と完全復興に向かって頑張っている日本の素晴らしさを外国人の読者に伝えられ、また日本を愛する彼らの言葉が更に日本人の復興への意欲と希望の励みになれることを望んでおります。

最終更新日: 2012年3月11日(土)
外国人の東日本大震災体験談は、3月11日まで更新されます。

「私が乗っていたプロペラ機は低い位置で飛行していたので、仙台市が津波に飲み込まれている状況、また仙台空港が津波の中にある光景を直接目にしました。」

トム・D・Mさん、沖縄県在住、英語教師

東日本大震災が起きた当時、私は沖縄県の嘉手納飛行場から神奈川県の厚木海軍飛行場行きの飛行機に乗っていました。

神奈川県に到着した時、私はさがみ野駅まで歩き、全ての電車が運行停止していることを知りました。私はなんとかして福生駅(横田飛行場の最寄駅)まで電車で行こうと試みました。結局、私はさがみ野駅から厚木駅まで戻り、厚木海軍飛行場で1晩を過ごしました。

その後、私は沖縄に戻ることが最善だと考え、沖縄に戻ろうとしました。厚木から沖縄行きの飛行機があったことはとても幸いでしたが、飛行機は青森県の三沢飛行場から山口県の米軍岩国基地を経由してやっと沖縄に到着しました。

その後、私は沖縄に戻ることが最善だと考え、沖縄に戻ろうとしました。厚木から沖縄行きの飛行機があったことはとても幸いでしたが、飛行機は青森県の三沢飛行場から山口県の米軍岩国基地を経由してやっと沖縄に到着しました。

飛行時間は合計約10時間くらい掛かりましたが、料金が掛かりませんでしたのでお得でした。私が乗っていたプロペラ機は低い位置で飛行していたので、仙台市が津波に飲み込まれている状況、また仙台空港が津波の中にある光景を直接目にしました。

また、製油所が大火事になっている現場も直接目にしました。このような惨劇を直接この目で見て、とても悲しくなりました。午後10時に沖縄県に到着し、春休み中はずっとテレビを見続けていました。

「このような大震災が起きた中でも、日本人の人々は忍耐強さと不屈の精神を持って復興に取り組み続けていることに感動しました。」

当時東京在住、現在バンクーバー在住カナダ人、男性

東日本大震災が起きた当日も、普段と変わらず教室でとても良い生徒達に楽しく英語を教えていました。

また大きな余震が起きた時に再び建物の外まで避難しました。その後、ロビーにある小さなテレビで東北地方の海岸部で津波が陸を飲み込んでいる光景を唖然としながら見続け、ロビーと会館内にいた若い人々や高齢者の人々は自分たちの持っていたリュックサックやバッグを枕にして夜を過ごしました。私は楽屋にある椅子を並べてその上に横になり、夜を過ごしました。そして地下鉄の1つの線が運行再開したという情報を聞き、その線で少なくとも自分の自宅までの半分の距離は行けると思い、都内に住んでいる妻の家族の元へと出発しました。あまりの不便さに疲れて、早朝にやっと帰宅できました。帰宅途中、何千人もの人々が私と同様、帰宅に困難していました。

何人かの歌劇団の人達は今まで予定していたパフォーマンスの予定をキャンセルし、しばらくの間イタリアに帰ることになりました。私は他の人達と同様にテレビのニュースをずっと見続け、この東日本大震災が世界中で注目を集めた大震災となったことを知りました。福島原子力発電所の放射能災害が大問題となった時、多くの外国人は日本を去りましたが、妻の家族と一緒に住んでいる私は、日本出る必要もないし出たくないと思いました。

何人かの歌劇団の人達は今まで予定していたパフォーマンスの予定をキャンセルし、しばらくの間イタリアに帰ることになりました。私は他の人達と同様にテレビのニュースをずっと見続け、この東日本大震災が世界中で注目を集めた大震災となったことを知りました。福島原子力発電所の放射能災害が大問題となった時、多くの外国人は日本を去りましたが、妻の家族と一緒に住んでいる私は、日本出る必要もないし出たくないと思いました。

一方で、福島原子力発電所の放射能災害の危険性が海外のメディアで大問題になっている中、日本人の人々は特に強い余震が何度も起きている東北地方に出向いて福島原子力発電所で作業をしたり、節電に協力をし合ったり、スーパーでも周りの人々を配慮して買い溜めをせず、義援金を寄付したり、冷静になって助け合っていました。夜の渋谷と新宿は普段光がところどころにあるネオン街ですが、3月11日以降の東京は光もなく、人もあまりいませんでした。

このような大震災が起きた中でも、日本人の人々は忍耐強さと不屈の精神を持って復興に取り組み続けていることに感動しました。このような日本人の姿勢を見るだけでも学べることは沢山あり、良い経験でもあります。

2012年3月10日(水)更新 

「この震災でたくさんの命が失われ、たくさんの人々が寒さに耐える日々が続きました。自分が力になれないことがとても悔しいです。」

シェイラ・Uさん

東日本大震災が起きた当時、3人の同僚と一緒に栃木県の勤務先の駐車場にいました。

勤務先の建物の一部は崩壊し、車も今まで見たことがないほどはね上がっていました。私はずっと1989年に起きたロマ・プリータ地震のようだと思っていましたが、この大地震はそれ以上長く続きました。地震が収まった後、私たちは勤務先に戻って地震の震度を確認しようとテレビをつけたら、恐ろしい津波の映像が放送されていました。

その後余震が来て、2回くらい外に避難したのを覚えています。この震災でたくさんの命が失われ、たくさんの人々が寒さに耐える日々が続きました。自分が力になれないことがとても悔しいです。

「なかなか会えない日本にいる家族や友達のことがものすごく心配でした。」

カリ・ハルカさん

東日本大震災が起きた日、私は母国に帰国していて、朝の6時くらいに起き(東日本大震災が起きて間もない時)、朝食を食べながらテレビをつけました。

テレビ上で仙台空港の外の津波の被害、茨城県のそばで発生した渦巻き、福島原子力発電所の崩壊、建物などの崩壊の映像を見たのを覚えています。4日間ほとんどBBCで東日本大震災の後の様子や出来事を不定期に生中継を行っていて、死亡者数の増加や被害の詳しい様子が放送されているのを見ました。テレビから目が離せなくなり、ノートパソコンでもテレビを一日中見続けました。なかなか会えない日本にいる家族や友達のことがものすごく心配でした。家族や友達だけでなく日本中にいる人々がどうか無事であることを願うばかりでした。

この大震災は9/11に起きたアメリカ同時多発テロ事件並みに恐ろしい出来事だと思います。この大震災のことは決して忘れません。

「私は今でもずっと日本にいる人々のことを思っています。完全復興には時間が掛かるかと思いますが、日本人の人々は強い精神を持っているので必ず復興していけると思います。」

ナターシャ・Oさん、オーストラリア人

仕事が終わってテレビをつけたら日本で大地震と津波が発生したことを知り、この大震災で命を失われたり、被害を受けた日本にいる人々のことを考えると心が痛くなり、涙が止まりませんでした。

東日本大震災が起きた当時、母がジムに行っている間、私と父はテレビをつけて日本で大地震と津波が発生したことを知ってすぐに宮城県にいる祖父母と叔母に何度も何度も電話を掛けました。1時間後、母は日本で起きた震災のことも知らずに笑顔で帰宅してきました。

母にニュースで日本で起きている大震災のことを話し、私は親戚に連絡し続けました。仙台市に避難している叔母に連絡が取れるまでの8時間はずっと不安でいっぱいでした。祖父母も近くの避難所にいて無事だと聞いて安心しました。家族を一人でも失わなくて本当に幸いだと思います。

私は今でもずっと日本にいる人々のことを思っています。完全復興には時間が掛かるかと思いますが、日本人の人々は強い精神を持っているので必ず復興していけると思います。

2012年3月9日(水)更新 

「地震が発生し始めた時、私と私の周りは仕事に専念していたので地震に気付きませんでした。」

レイマー・Mさん、フィリピン出身江戸川区東葛西在住

2011年3月11日の地震が発生し始めた時、私と私の周りは仕事に専念していたので地震に気付きませんでした。

私はジョージ、レイ、アリとエルビラに「皆、地震感じる?」と尋ねたら、アリが「おぉ、僕たち揺れているよ!」と笑っていました。そして揺れが段々強くなり、周りの物が落下し、ドアは開いたり閉まったりを繰り返し、ガラスは騒音を立てていました。私は彼らに「これは冗談言っている場合じゃないな」と言い、ジョージとエルビラは抱きしめながらパニックになっていました。

そして私たちは机の下に避難しました。その後上司が来て帰りたければ下の階まで避難するように呼びかけました。私たちは無事に帰宅できました。

その時、私はショックを受けていて、ふとフィリピンにいる唯一の息子と私の家族のことを思い出しました。彼らにとって私は今でも必要な存在なのです。携帯電話で連絡を取ろうとしましたが、電波が混雑して繋がらない状態でした。物凄く驚愕的な経験でした。

しかし、私たちは今でも神のご加護を受けています。テレビで津波が陸を飲み込む映像を見て、その場でひざまづき、「神よ、私たちをどうかお許しください。アーメン。」と神に祈りました。命は短く儚いものであり、神が私たちに命を与えてくれたのです。なので、今無事でいるということはとても幸いなことなのです!

「そんな日本の人々は世界中から称賛、尊敬されるべきだと思います。」

オーストラリア人、女性

東日本大震災のような大地震を体験したのは今回で初めてではありません。阪神・淡路大震災が起きた時、私は愛媛でJETプログラムの英語指導助手として勤務していました。1995年の阪神・淡路大震災は東日本大震災に比べると短い時間でしたがとても大きな地震だったのを覚えています。

昨年3月に起きた東日本大震災は今まで体験した地震とは違い、揺れが長く続きました。私がコピー機を使用している時にかすかながら揺れに気付き、社内にいる社員の中で一番最初に地震が発生したことに気付きました。揺れがなかなか収まらない中、同僚と私は避難できる場所を探していました。その時一人ではなくて幸いでした。怖くはありませんでしたが、地震が早く収まるよう祈り、自分の身を守ることに専念していました。

地震の最中にニュースはすぐに地震速報を放送していました。私はBBCに連絡をし、日本でどのような状況が起きているのか詳しく説明をしました。BBCはちょうど日本にいる外国人から日本の状況を聞きたかったみたいでしたので、私の連絡を歓迎してくれました。まだ建物が揺れている最中にBBCの記者との生中継で自分の声がラジオから流れているのは滑稽だと思いました。そして生中継での私の発言が(多分アイルランドの)新聞に掲載されていて、私の名前も綴りの間違いもなく掲載されていました!

同じ映像をテレビで放送されていたのは怖かったです。東日本大震災で起きた津波と2004年に起きたスマトラ島沖地震による津波を比較しますと、東日本大震災で起きた津波の方がものすごい被害を及ぼしたのではないかと思います。福島原子力発電所の放射能災害が大問題となった時、私の家族は私に帰国するよう呼びかけましたが、私はまだ日本に残りたいと思いました。母は理解できないかもしれませんが、私にとって日本はとても心地よい場所です。

オーストラリアに帰国するよりも私は日本にいなければなりません。そして私は日本で日本にいる人々とこの震災が及ぼした被害の悲しみ、助け合いの精神、友情、愛情、克服しようとする精神、少しでも良いことがあった時の喜びなどを分かち合えたことをとても光栄に思います。日本の人々はこのような前代未聞の大震災が及ぼした無数の難関に強く立ち向かっています。そんな日本の人々は世界中から称賛、尊敬されるべきだと思います。日本の人々は勇気と慈悲深さを持っていてとても尊敬しています。

「”自分たちにできることは何もない、どうせ死ぬ運命ならどこへ行っても変わらない”という上司の発言に、私は疑問を感じていました。」

ケビンさん、東京在住

東日本大震災が発生した当時、私は六本木ヒルズの36階で勤務していました。

地震が発生し始めた時、普段の地震と変わらないだろうと思いましたが、揺れが段々強くなっていき、周りにいた人達が立ち上がりました。香港から来た上司はオフィスから私たちの元へ来て、自分たちにできることは何もない、どうせ死ぬ運命ならどこへ行っても変わらないと言いました。

私はその上司の発言に対して疑問を感じましたが、私も周りの人達も揺れが収まるまでその場で座っていました。

一番印象に残っているのが、地震の揺れよりも建物のガラスがガタガタと音を立てているのが怖かったことです。あの音だけは二度と聞きたくないです。

2012年3月8日(水)更新 

「こんな大震災の後でも、日本がすぐに復興したことにとても感心しました。私は日本と日本人が本当に大好きです。」

フィリピン在住フィリピン人、女性、ESL教師

東日本大震災が起きた当時に日本にはいませんでしたが、このような震災が日本に起きたことを知り、驚きを隠せずに今でも日本のことを心配しています。

日本の無事を祈り続け、日本の震災の状況を知りたくてずっとテレビから離れませんでした。ラジオやテレビのニュースから日本で起きた大地震や津波について情報を聞きました。

しかしこのような震災があったにも関わらず、日本の人々はパニックにならず、お互いに助け合っているのを見てとても感動しました。電車に乗るために駅の長蛇の列に忍耐強く並び、いつでも冷静を保っているのを見ました。震災時はパニックになった人もいるかもしれませんが、冷静になってできる限り助け合うことに専念しているように見えました。その光景を目にし、日本人をとても尊敬している気持ちでいっぱいです。いつか日本に住もうと思っています。日本はどんな災害が起きたとしても安全な場所であると思います。

こんな大震災の後でも、日本がすぐに復興したことにとても感心しました。私は日本と日本人が本当に大好きです。いつか日本にまた訪れようと思います。

「日本の人々は精神的にとても強いので、この震災からすぐに復興できると思います。」

匿名

日本でこのような自然による大災害が起きたことがとても悲しくて涙が止まりません。3年間日本で働ける機会があり、日本を第2の家にしたいと思っていました。

しかし日本の人々は精神的にとても強いので、この震災からすぐに復興できると思います。できるだけ早く日本が完全復興できるように祈り続け、応援しています。

「テレビをつけると、東京がこの地震でものすごい事態になっている状況をニュースで報道されていました。」

大阪府在住

東日本大震災が発生した当時、私は仕事から帰ってきたばかりでした。私は妻に電話をして、ここまで大きな地震が来るとは思っていなかったことを伝えました。

テレビをつけると、東京がこの地震でものすごい事態になっている状況をニュースで報道されていました。テレビをつけて1分後くらいに2回目の余震が発生しました。

2012年3月7日(水)更新 

「子供がいるのにも関わらず、こんなにも静かな保育園は見たことがありません。」

千葉県在住カナダ人、男性、英語教師

東日本大震災が起きた当時、自宅でインフルエンザになった日本人の妻を看病していました。もし妻がインフルエンザにかかっていなかったら、勤務先の中央区の小学校にいたと思います。妻の体調も少し良くなり、遅い昼食を食べ終え、テレビを見ながらお茶を飲んでリラックスしている時に地震が発生しました。私も妻も共に「おぉ、地震だ」と思いました。

横揺れであればそこまで問題がないけれども、縦揺れであれば危険だと聞きましたが、洗濯機のような揺れがあるとは知りもしませんでした。妻はすぐに立ち上がってテレビが倒れないように抑えました。揺れは収まらずに大きくなる一方でした。私は妻を寄り添い、妻はあまりの恐怖で叫んでいました。このような状況の中冷静でいられる自分に驚きました。私はこのような状況にどのように対応するか考えていました。私と妻の間には5人の子供がいるので、全員無事でいられる方法を考えていました。子供2人は保育園、1人は中学校、あと2人は高校にいました。

揺れが収まった後、コンバットギアというミリタリー用の防具を掴み外に出ました。アメリカのニュースをラジオで聞き、状況を確認しました。物凄く狭い道を走っている間、窓を開けて万が一緊急放送が聞けるようにし、通りすがりの人達に東北地方の方で強い地震があったことを知らせました。

子供が通っている保育園に着き、保育園はやけに静かでした。子供がいるのにも関わらず、こんなにも静かな保育園は見たことがありません。生徒達は教室の中心に集まっていつでも外に出られる準備が整っていました。私は教室に入り、息子と先生を呼びました。息子はすぐに帰る身支度を整え、私のところにやってきました。その後、娘がいる教室へ娘を迎えに行き、2人を車に乗せたところで余震がきました。

息子はあまりの怖さで泣き叫び、娘も恐怖で震えが止まらなくて後に泣き出してしまいました。私は娘と息子をあやそうと抱きしめました。余震が収まった後、車に戻って家まで帰りました。BBCニュースを見ると津波が東北地方を飲み込んでいる驚愕の映像が映し出されていました。私たちはその後何回も余震を体験しました。

1時間後に長女が中学校から帰ってきて、次男は彼の祖父と祖母と一緒にスーパーにいましたが外に出て全員無事でした。長男は学校が終わった後そのまま勤務先まで歩き、私たちに連絡しようとしましたが携帯電話の電波が混雑してなかなか連絡が取れなかったみたいです。

私たちは5時間もテレビを見続けました。幼い息子はブランケットを持ってきて床に敷き、その上にレゴブロックとトミカをばらまきました。そしてブランケットの中に足を入れ、「これが津波だよ。津波は車も建物もこうやって飲み込んじゃうんだよ。」と言い、津波の様子を再現しようとしました。皆さん申し訳ありません。これが5歳児から見る日本の大災害の様子なのだと思います。

その後、5歳の息子はいつカナダに行くのか何度も尋ねてきます。その質問だけは今でも答えられないでいます。

「東日本大震災が発生してからもうすぐ1年経ち、当時のことを考えると自分たちの幸運さに感謝しなければならないと思います。」

福島県いわき市在住ニュージーランド人、英語教師

私は家を出て車に乗ったばかりの時に大地震が発生しました。揺れは激しく、周りにあった建物がガタガタと音を立てていました。私は車を止めて電柱や建物の一部などの物の落下の危険性がない場所へ走って避難しました。

私の周りにいた人達は叫び、その場でしゃがんでいました。ショッピングセンターの後ろにある丘にある木が大きく揺れ、空が普段では考えられない黄色に変化していました。私はパニック状態になり、車に乗って夫のいる場所へ向かいました。幸いなことに、夫は大地震が起きた日は仕事が休みで、近くにいました。

旦那は税金を払うために必要な書類を忘れたので、旦那を迎えに行き、すぐに自宅に戻りました。家が崩壊していないか心配でしたが、幸い無事でした。しかし、帰宅途中で余震で車が大きく揺れました。

愛犬も無事でした。当時私は妊娠7ヶ月で赤ちゃんに何も支障がなくて良かったです。私たちが住んでいる場所は海から遠い丘の上でしたので、テレビで津波の様子を見た時はショックを隠しきれませんでした。

その日の夜は自宅のベッドで寝て、東京で帰宅に困っている人達のことを考えると心が痛くなりました。しかしその時、福島原子力発電所の放射能災害が大問題になっていることを知りもしませんでした。2日後にいわき市から日本の西側に引っ越しました。

その時は私たちだけが避難してて、私たちの周りの人達全員はまだいわき市に残っていました。幸いなことに車のガソリンを十分に補充していましたので、新潟県から京都府、京都から旦那の故郷である鳥取県まで問題なく行けました。東日本大震災が発生してからもうすぐ1年経ち、当時のことを考えると自分たちの幸運さに感謝しなければならないと思います。

「震災前、死ぬことなんて怖くないと思っていました。しかし3月11日の大地震で、突然自分はまだ死にたくないと思いました。」

東京都在住日本人、女性、ファッションバイヤーアシスタント

当時、私はインターンとして銀座に勤務していました。地震が発生した時すぐに収まるだろうと思っていましたが、収まるどころか揺れが大きくなりました。揺れが大きくなった時に同僚の一人が窓を開けて机の下に一旦避難しようと呼びかけました。この時、大きな地震が来た時に窓を開けると出口の確保ができて安全だということを学びました。

机の下に避難している時、建物が崩壊するのではないかと怖くなり、万が一のために目の前に落下した誰かのペットボトルのお茶を掴んで握りしめました。(その後他の人にこのことを話すと笑われますので、少しお恥ずかしいお話です。)

地震が収まった後、同僚は私を家に帰しました。幸い、私の父が銀座のアパートにいましたので、そこで一晩泊めてもらいました。父は地震に対して恐怖心も何もなく、「こりゃ保険会社や不動産会社はこの震災で儲かっただろうな」とか「地震で死んだら死んだでしょうがないし、いつ死ぬかわからないから人生を楽しもう」と言っていました。父の話を聞いていると、確かに父は正しいことを言っているのかもしれないけれども、こんな状況でそういう発言は不適切なのではないのかなと疑問に思いました。

翌日、タクシーで帰ろうとしましたがタクシーがなかなかつかまらず、やむ終えず銀座から徒歩で帰ることにしました。途中で寄ったコンビニやスーパーには品物がほとんど売切れ状態でした。上に高速道路、隣に東京湾という道のりを歩くのは少々怖かったです。

福島原子力発電所の放射能災害がニュースで一大事となった時、大学にいた留学生がほとんど帰国してしまい、次の学期のいくつかのクラスがキャンセルになってしまいました。中には地震自体を体験している留学生もいたと思いますので、彼らにとってこの大地震でとても怖い思いをしたかもしれません。そして私のとっていた美術の授業の教師の態度が以前より柔らかくなりました。

また私の友達の一人が東北地方出身で、母親と連絡がなかなか連絡がつかなく、SNS上などで母親を探していると言っていました。その後、友達からフェイスブックとミクシィ上で母親が見つかり、岩手県陸前高田で津波に襲われて亡くなったことを告知し、それを知った時に涙が止まりませんでした。

友達の告知には「不適切でもいいから笑って幸せでいることが、いつまでも悲しんでいるよりも大切なことだと思います。なので俺はいつまでも前向きに生きていこうと思います。母はいつまでも母の死を悲しむことを望んでいないと思います。」と書いてありました。3月11日に起きた出来事は、言葉では言い足りないほどの思いがあります。この震災が自分自身を強くし、できる限りの支援をしたいと思っています。

震災で学んだこと
震災前、死ぬことなんて怖くないと思っていました。しかし3月11日の大地震で、突然自分はまだ死にたくないと思いました。大きな揺れの中何とかしてでも生き残ろうとしました。そしてこの震災を経験して、人生を無駄にしてはいけない、一瞬たりとも自分の人生を大切に生きなければならないと思いました。

実は福島原子力発電所の放射能災害が大問題になった時、日本を出ることもできました。しかし、私もアメリカ出身の私の婚約者も日本に残ることに決めました。自分の大切な物(人)(この場合だと日本)が大変な時にこそそばにいてあげるのが一番だと思います。それに日本はこの震災から必ず復興すると信じています。私も婚約者も日本に残っていることを誇りに思っています。

2012年3月6日(火)更新 

「私は日本を自分が一生住む場所にしたいし、日本国民になりたいと思っていました。」

アメリカ合衆国ミズーリ州在住アメリカ人、女性、現在無職

東日本大震災が起きた当時、私は東京都日野市に住んでいて、日本人の彼氏が仕事に行っている間に洗濯物を干していました。

地面が揺れているのを感じて、近所に住んでいる2人の女性に「地震ですか?」と尋ね、そうだと答えたので私はベランダで洗濯物の干し竿とアパートの壁で体を支えていました。なんだか遊園地にあるスリルのある乗り物に乗っている気分でした。そして揺れが大きくなり、激しい波の中を走る船のようで、気分が悪くなりました。

揺れが収まった時、洗濯物をそのままにしてテレビをつけました。テレビの中の津波が陸を飲み込む姿をみて物凄く驚きました。津波は車や建物、畑を簡単に飲み込んで行き、私はショックを隠しきれませんでした。

彼から電話が掛かってきて私が無事かどうか尋ねました。私はテレビを見ながら無事だということを伝えました。その日の週は、どの店もトイレットペーパー、牛乳、パンなどが売り切れ状態でしたので、1つでも日用品が入手できるだけでも嬉しかったです。停電中は、就職面接に行くことさえ大変でした。

東日本大震災から1ヶ月後、私は日本語学校に通い、そこにいた女性が私にアメリカ政府から強制帰還を告げられたかどうか尋ねました。私は例え大地震、津波、放射能災害が起きた中でも日本を離れないと答えました。私は日本を自分が一生住む場所にしたいし、日本国民になりたいと思っていました。

しかし残念ながら、ビザの更新ができなくてアメリカに帰国しなければならなくあり、私の日本語も流暢にならないまま日本を去らなければならなくなりました。

「日本の人々はとても素晴らしい人々です。日本の人々が震災から復興し、元の平和な生活に戻れるよう神のご加護があるようにと祈り続けます。」

匿名

まず、3月11日の東日本大震災の件に関しての私の思いお話をできる場を提供させてもらい、ありがとうございます。

東日本大震災の災害は日本中にいる人々にとって悲劇で、心に傷をつける出来事だったと思います。東日本大震災でなくなられた多数の方々のご冥福を祈念し、お悔やみ申し上げますとともに、被害を受けた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

日本の人々はとても素晴らしい人々です。日本の人々が震災から復興し、元の平和な生活に戻れるよう神のご加護があるようにと祈り続けます。

「私は今でも日本にいます。」

パトリシアさん、東京都両国在住アメリカ人、女性、大学英語教師/ウェブデザイナー

4階にある自宅のキッチンにいた時に、1980年代に起きた地震よりも大きな地震だと思いました。

大きな揺れで物が大きな音を立てて壊れ、全ての引き出しが開いたり閉まったりを繰り返し、車輪付きの家具はよろよろと動き、もしかすると建物自体が崩れるかもしれないと思ったので、震えた手でなんとかしてドアの鍵を開け、よろけながら廊下に出て、近所の人達と共に階段を降りて小さな裏道に出ました。

私は東京の両国という下町に住んでいて、私の知っている人をできるだけ多く見つけることが最善だと考えました。私の周りの人達は私が足の怪我で1ヶ月間松葉杖を使っているのを見たことがあるかと思います。何軒かの家に裂け目ができ、瓦礫が道に落下し、建物が目に見えるように揺れているのを見ました。周りの人達は携帯電話やスマートフォンでニュースをチェックしていて、60フィートの津波が東北地方に向かっていることを聞きました。

相撲の力士の一人がTシャツとジーンズ姿で近所の人達と話し合っているのを見て、彼の大柄な体と相撲特有の髪型とヘアオイルの香りは私の気持ちを少し落ち着かせました。揺れが収まった時に自宅に戻り、アメリカにいる家族に私が無事だということをメッセージ伝えました。近所の周りを自転車で走り回っていたら、たくさんの人達が駅の周りで電車の再運転を待っていました。

福島原子力発電所の放射能災害がニュースで大問題となった時、これは他人事では済まないと思いました。

私は今でも日本にいます。時々地震に襲われる夢を見ることもあります。

2012年3月5日(金)更新 

「私は日本人の震災に負けない強さと勇気をとても尊敬しています。」

リヨン在住フランス人、女性、教師

東日本大震災の日、私は大阪にいました。当時、外は寒くて、朝に難波にいたのですが体調不良でしたので、家に帰宅して寝て安静にすることにしました。

目が覚めた時、Eメールの受信ボックスに沢山のメールが来ていました。テレビで津波が陸を飲み込む様子を見るまで何が起こったのか全く理解できませんでした。この震災のことを知った時ものすごくショックを受けました。私の友達の多くが東京に住んでいて、連絡を取ろうとしても連絡が取れなかったので、とても心配になりました。

この震災が起きたことがその時信じられなくて、散歩しに外へ出ました。これが現実なのかどうか自分に問い続けていました。2、3日から一週間後に被害が酷くなっていることをニュースで見た時は本当にショックでした。

私は日本人の震災に負けない強さと勇気をとても尊敬しています。 震災で学んだこと
命は素晴らしく短いものです。お互いに尊敬、感謝の気持ちを忘れずに生きていきましょう。

「日本人がこんな大災害に遭ったことに対して嬉しく思う人なんていません。」

アディル・Yさん、英語とロシア語の翻訳家/教師

東日本大震災の時、私は日本にはいませんでした。また私は日本に行ったことがありません。日本について知っていることは村上春樹著書の本、黒澤明監督の映画、東松照明の写真、フィラデルフィア州で知り合った日本人の友達「まさ」など沢山あります。

東日本大震災が起きた時、私たちは日本で被害を受けた皆様のことを思い続け、この震災がより酷くならないよう祈り続けました。世界中が大きな災害を受けた日本のことを応援していて、日本人がこんな大災害に遭ったことに対して嬉しく思う人なんていません。

「私は福島原子力発電所に行き、例え死ぬ可能性があるとわかっていてもそこの作業員の人達の手助けをしたい。」

日系エジプト人

私が7歳頃に日本を去り、現在時々日本を訪れています。

東日本大震災が発生した時、日本で私が唯一知っている場所が崩壊するような驚愕の悲劇を目にしました。日本のことはあまり知りませんが、日本を去る前に仙台市と名取市の間に住んでいましたので、その場所のことだけは知っています。津波が私の思い出のある場所を飲み込んでいったのです。

停電から電気が使用できるようになった時に、やっと祖母と連絡がつくようになり、ぎこちない日本語でどれだけ祖母を心配していたか話しました。福島原子力発電所の放射能災害が大きな事件となった時、福島原子力発電所が名取市に近いことを知っていました。私は日本に行くことを試みて、福島原子力発電所で働く勇気のある人々の支援をしたいと思いました。福島原子力発電所で放射能災害の悪化を防止させる作業している人々のことは知りませんが、その人達は私にとって最高のヒーローだと思います。私の祖母、家族のために、日本を救うために頑張っている人達を誇りに思います。私は福島原子力発電所に行き、例え死ぬ可能性があるとわかっていてもそこの作業員の人達の手助けをしたいと思っているし、できることを何でもしたいと思っています。

3月11日に起きた東日本大震災は私の人生を変え、現在日本での仕事を探していて、日本に貢献し、祖母を支え、日本で唯一思い出のある場所を復興していこうと思っています。

日本に再び戻り、少しでも日本人の皆様の手助けをし、復興活動の手助けをしていこうと思います。私は日本に誇りを持ち続けて生き続け、死んでもその気持ちは変わりません。

2012年3月2日(金)更新 

「また子供達は防災頭巾を被っていました。そんな子供達を見ていると何だか可愛いような悲しいような複雑な気持ちでした。」

カリフォルニア州出身アメリカ人、高校の英語教師

東日本大震災があった当時、私は鎌倉で年末の税金を払っていました。3月11日は確定申告の最終日で私は税務署で1時間ほど列に並んでいたところで地震が発生し、停電になって揺れは1分以上続きました。

当時私の娘が隣町の保育園にいて、どこも停電になり、電車もバスも運行停止している状況でした。私は8km先にある保育園で娘が無事かどうか確かめに行かなければなりませんでした。

しかし私は税金を払うために並び続けました。税務署のスタッフは大地震の後でも仕事をいつも通りに継続しました。私は税金を払い終わるまでただ列に並び続けていました。

時々本当にこれでいいのかと自分の行動に対して疑問に思います。大地震の後、列から出てそのまま娘の元へ行くべきだったのではないのかと後悔しています。しかしその時は、私がいた建物も他の建物も崩壊せず無事だったので娘も無事だと思いました。地震から30分後に税金の支払いを済ませて、娘のいる保育園に向かいました。

保育園の先生達はとてもしっかり子供達の面倒を見ていて、子供達の両親が全員迎えにくるまでその日の夜ずっと子供達の面倒を見ていました。娘のいる教室に入った時、余震から身を守るために机の下に避難している子供達を沢山見ました。

また子供達は防災頭巾を被っていました。そんな子供達を見ていると何だか可愛いような悲しいような複雑な気持ちでした。

「この日、どんな大変な状況の中でも勇気と気品を保つ日本人の姿勢は私も見習わないといけないと思いました。」

東京都在住フランス人、ソフトウェア開発者

1年間ずっと日本に行きたいという夢を見ていて、2010年10月に2011年3月11日17時到着予定のニューヨーク発成田空港行きのチケットをやっと入手し、日本に初めていくのがとても待ち遠しかったです。東京についた時の風景や雰囲気を想像するだけで胸がわくわくしました。

到着予定時間の2時間前に機長から東京で大地震が発生したため、成田空港が一時的に閉鎖するという放送がありました。そして搭乗していた飛行機は別の空港へ向かうことになりました。私は隣の席に座っている日本人の若い男性とお話をして、日本は地震が頻繁に発生することなどを聞きました。時間が経ち、どこの空港も混雑していたため、着陸する場所がなかなか見つかりませんでした。少しずつ、搭乗していた人達が着陸する場所が見つかりにくいほど酷い地震だったことを知り始めました。5時過ぎに札幌千歳空港に着きました。

到着後、周りの人達は携帯電話でニュースをチェックしようとしていました。搭乗していた人達皆、到着した飛行機の中で席を立って集まって携帯電話のニュースを見ていました。そして私も含めた周りの人達皆、その時起きた震災がこれほどまでにも大きなものだと知りましたが、ほとんどの人達は冷静で落ち着いていました。数時間後、機長から別の空港に移動するかしないか検討中という放送がありました。しかし燃料の不足と別の空港の混雑具合のため、14時間もの飛行後に加えて2時間も機内で待機していました。

食料もなく、飛行機の燃料も不足していましたが、それについて私も含め、誰も文句はなかったと思います。この震災のことで皆さん頭がいっぱいで、今後どうしていこうかと思っていたと思います。キャビンアテンダント、エコノミークラスとビジネスクラスにいる乗客も、経済的、社会的、国籍に関わらず考えていたことは一つだったと思います。

千歳空港の中は目的地まで行き詰まった人達でいっぱいで、空港内は混乱していましたが、それでも日本の人々は冷静でマナーを守った態度を保っていました。このような状況の中でも冷静でいられる日本人の姿勢には感心しました。16時間後に飛行機に戻り、3月13日の午前1時に成田空港に到着しました。日本に来て初めてこのような事態に出くわすなんて全く想像していませんでしたが、この経験が自分の人生を変えた気がします。

この日、どんな大変な状況の中でも勇気と気品を保つ日本人の姿勢は私も見習わないといけないと思いました。

「震源から500km離れている私たちのいる場所にまで地震が起きたってことはこれは相当酷い震災だと除々に理解してきました。」

匿名

震源は名古屋市から離れた場所でしたが、地震を感じました。

おかしなことに、大地震が来る5分前にノートパソコンから書類の印刷を行っていた時に、ページ範囲の設定をし忘れたせいか誤って200枚くらい印刷してしまい、3年間日本にいて初めてこのようなミスをしました。

私と妻は大パニックになり、急いで印刷を途中でキャンセルしたら、プリンタに紙が詰まってしまいました。(私たちは小規模ながら会社経営をしているので余計な経費を費やしたくないのです。)プリンタから詰まった紙を取り除いている時に地震が発生しました。

最初は地震よりもプリンタに詰まった紙を取り除くことに気を配っていましたが、普段とは違う地震なのに気付き、テレビをつけてニュースを確認しました。震源から500km離れている私たちのいる場所にまで地震が起きたってことはこれは相当酷い震災だと除々に理解してきました。

「津波がもたらした放射能災害は人間だけでなく農業、特に畜産農家に大きな影響を与えます。」

バングラデシュ、ダッカ在住、農業大学農学部教授

テレビで3月11日に津波が日本に被害をもたらした映像を見た時、物凄くショックを受け、親愛なる日本の人々がその被害を受けていると思うととても心が痛くなりました。

私は日本の報道機関に、日本人はどんなことがあっても乗り越えられる勇気があるので頑張って欲しいというメッセージを込めた手紙を送りました。しかし、津波がもたらした福島原子力発電所の放射能災害を考えると、原子炉からの発電を維持した方がいいのかどうか疑問に思います。

世界中の人々は自然災害が日本で放射能災害をもたらしたことから学ばなければなりません。私は原子力発電の使用は推奨できません。津波がもたらした放射能災害は人間だけでなく農業、特に畜産農家に大きな影響を与えます。

日本にいる私の友達はこの震災がもたらした悲劇から立ち上がり、復興に向けて頑張っていると信じています。世界中はいつでも日本の味方です。

2012年3月1日(木)更新 

「この震災を乗り越えて、日本人の皆さんがお互い助け合っているのを見て驚きました。一人は皆のために、皆は一人のために」という慣用句はまさにこういうことを言うのだと思いました。」

土浦市在住カナダ人、男性、英語指導助手

震災が起きた当時、私は土浦市の中学校の職員室でゆっくりしていました。職員室にいた28人の教師の携帯電話の緊急地震速報が一斉に鳴りだすまで、大したことのない地震だろうと思っていました。

校内にいた人々全員校庭に避難した後、ほとんどの教師がメッセージを送信したり家族や恋人に連絡を取ろうと試みていました。何人かの生徒達は隠れて携帯電話で誰かに連絡を取ろうとしていましたが、教師達が生徒達に携帯電話を使用しないよう呼びかけていました。こんな緊急な事態で教師達が携帯電話を使用してもいいけれども生徒達が使用できないのは不公平だと思いましたが、その後教師達が生徒達に自分達の携帯電話で連絡を取るように渡したのです。

また幸いなことにポケットWi-Fiを持っていたので、スマートフォンでインターネットに接続することができました。また生徒達が家族にEメールで安否を伝えられるよう自分のスマートフォンを生徒達に渡しました。生徒達が家族に安否が伝えられたことで少しでも安心したようで良かったです。

この震災を乗り越えて、日本人の皆さんがお互い助け合っているのを見て驚きました。「一人は皆のために、皆は一人のために」という慣用句はまさにこういうことを言うのだと思いました。体育館でありったけの材料を使って料理をし合い、寄付して頂いたブランケットと枕を分け合いました。

特に道端で出会った女性に暖かい食事と水と小学校の漢字ドリルをいただいたことにとても感謝しています。日本の皆さんの優しさのおかげで、私は日本を去りませんでした。

「親友も彼もその日の夜は余震で起こされてなかなか眠れなかったみたいです。私は2人が無事で本当に良かったと思います。」

アメリカ人、女性

当時、私は岐阜県で英語指導助手として勤務していて、来日した親友と東京観光する予定でした。

親友は団体旅行で日本に来ているために単独行動ができないので、週末に親友の元を尋ねました。久しぶりでしたので会えてとても嬉しかったです。(岐阜県在住の)私の彼も卒業制作展の開催のために東京に来ていました。

中学校の職員室にいる時に地震が発生しました。長い時間揺れが続きましたが、物は落下せず、そこまで激しい地震ではありませんでした。後から、日本列島の北側の被害が大きいことを知りました。

東京にいる親友と彼が心配になり、連絡しようと試みましたがなかなか連絡が取れず、不安がつのる一方でした。直接東京まで行こうとも思いましたが、電車は運行していませんでした。

やっとその日の夜に連絡できるようになり、大地震が発生した時親友は観覧車に乗っていてすぐに観覧車を降りたみたいです。(親友は当時日本に来て間もなかったのでとてもびっくりしたと思います。)私の彼はCDショップにいたみたいです。親友も彼も電車が運行していない中、徒歩で長い距離を歩き続けたみたいです。

親友も彼もその日の夜は余震で起こされてなかなか眠れなかったみたいです。私は2人が無事で本当に良かったと思います。しかし、その後もう一度親友に会えなかったのは残念です。

「家にやっと帰って来た時に、地震で物が散らばった最愛の日本の家を見続けました。」

匿名

教師と生徒達の両親との会議に参加していた時に、大地震が発生しました。

私は5年生の生徒の一人の態度の問題についてその生徒の父親に話していた時に地震が発生しました。その時私は群馬県にいて、東北地方に比べるとそこまで大きな地震ではありませんでしたが、普段よりも遥かに大きな地震だとは思いました。揺れが大きくなった時に私は机の下に避難しました。

そして、校内にいた人達全員校庭に出て、学校の建物自体が揺れているのを目の当たりにしました。その時初めて、自然の力がいかに偉大かを実感しました。

数分後、私たち教師全員、両親達、何人かの生徒達が学校の前に集まり、この地震の震源や震度について疑問に思っていました。

校内のテレビで津波が船や車を飲み込む姿を見て、私たちはただただショックを受けていました。私は妻と9ヶ月の息子の安否が心配で、連絡を取ろうと試みましたが、なかなか連絡が取れませんでした。

数時間後、車で渋滞の中学校から家まで帰宅しました。普段40分で行ける時間がその日は3時間も掛かってしまいました。家にやっと帰って来た時に、地震で物が散らばった最愛の日本の家を見続けました。

「この震災で人々が助け合っているのを実際にこの目で見たことはとても貴重な経験だと思います。」

千葉県船橋市アメリカ人、男性、教師/コンサルタント

アメリカでジョン・F・ケネディが暗殺されたくらい、東日本大震災は日本にとって大きな出来事だと思います。

仕事に行く身支度をしている最中に地震が発生しました。私はアパートの4階に住んでいて、最初は普段と同じ大したことのない地震だと思いましたので、仕事には行けると思っていました。しかし地震発生から20秒後に今まで経験したことのない激しい揺れになり、心臓が物凄い音を立てて鳴っていて、すぐにアパートを出て非常階段で下に降りて道路に避難しました。

道路には他の人達もいて、ほとんどが宅配の人か学校帰りの学生達でした。私と周りにいた人達は横に揺れている建物や遠くに見える激しく揺れる電線を見つめていました。携帯電話のワンセグでテレビを見ようとした時、隣にいた宅配の人が「靴履いて来なかったのですか?」と尋ね、私は宅配の人から尋ねられるまで自分が裸足なのに気付きませんでした。

激しい地震から20分後、この大地震が最悪な出来事かと思いましたら、それは大きな間違いでした。震えながらアパートの4階にある自宅に戻り、テレビをつけました。その時にさっきの大地震を超える悲劇を見ました。海には4〜5波の津波が陸に向かい、陸を飲み込むこと止めませんでした。人々や車が迫り来る津波から必死に逃げようとしていました。また車が知らずに津波に向かって走っているのも見ました。この光景をテレビで見て、2001年9月11日の私の誕生日の朝にテレビをつけたらワールドトレードセンターが襲撃されているのを見た時の恐怖心がよみがえってきました。しかし、この時の方がもっと恐怖心を感じました。

その日の夜、私と妻は避難所に泊まりました。その必要は本当はなかったのですが、避難所の方が自宅より安全なので妻が安心できるかと思いました。食料を買いに15軒コンビニを周りましたが、どこもチョコレートやキャンディーしか置いてない状況でしたので諦めました。その日に何も食べられなかったとしても生きていけるし、何しろ今こうやって生きていられることを幸いに思わなければと思いました。

この日の出来事は決して忘れません。直接経験した悲劇を忘れてはいけないと思います。この震災で命を失った全ての人達へのご冥福をいつまでも祈り続けています。また、日本がこの悲惨な震災にも負けずに助け合って諦めずに復興していく姿も決して忘れません。東日本大震災で起きた全てのことを決して忘れません。最後に言えることは、この震災で人々が助け合っているのを実際にこの目で見たことはとても貴重な経験だと思います。また、そんな人々と共にこの震災を乗り越えていけたことはとても良い経験だと思います。

「私は日本人の皆様がどんなことがあっても乗り越えられる強い精神を持っているので、日本は何があっても大丈夫だと信じています。」

ベンガジ在住リビア人、女性、学生

2011年リビア内戦が起きる前、奨学生として日本で勉強する予定でいましたが、ニュースで東日本大震災のことを聞き、リビア内戦中だとしても日本の震災について心配していました。東日本大震災で被災した日本の人々のことを考えると心が痛くなり、今でも日本はどうなっているか心配です。

しかし、私は日本人の皆様がどんなことがあっても乗り越えられる強い精神を持っているので、日本は何があっても大丈夫だと信じています。

「これは大きな災害になるのではないかと思い、日本全体の状況がどうなっているのか気になりました。」

岐阜県岐阜市在住アメリカ人、男性、コンピュータープログラマー

岐阜市の自宅で仕事をしていた時に大地震が発生しました。

長い間地震による横揺れが続き、すぐにテレビをつけてニュースを見ました。これは大きな災害になるのではないかと思い、日本全体の状況がどうなっているのか気になりました。ニュースで製油所が大火事になった様子や空港からの津波の様子を見てショックを受けました。

その日はテレビを見続け、アメリカ同時多発テロ事件が起きた2001年9月11日に、ずっとテレビで何度も何度も悲惨な光景を目にしているのと同じような感覚でした。

2012年2月29日(水)更新 

「大地震の後、余震が何度か来ましたが、ずっと仕事をし続けました。」

ケン・シーロイさん、東京都在住アメリカ人、男性、記者

東日本大震災が起きた当時、私は東京の中心にある大きなオフィスで、小さな机に座って仕事をしながら自分の人生を嫌っていました。他の同僚と肘が触れ合うほど圧縮された距離で、更に無表情の同僚と向かい合いながら、PCに向かって黙々と朝から晩まで仕事に打ち込むことが日課でした。同僚と弁当を持って何も喋らずに黙々と弁当を食べる昼食時間が仕事上で一番ましな一時でした。しかしその時は、これ以上悪い事態になるとは思いもしませんでした。

床が突然ここまで大きく揺れるなんて誰も予想していませんでした。建物やグラスが大きく横に揺れ、多くの人達が一斉に叫ぶ光景はとても滑稽でした。

この震災が起きる前に災害に備えて、私の勤務先の会社は社員1人1人に1リットルの水と缶パン2缶を配布しました。日本は他の国にはないような変わった食べ物がたくさんありますが、缶パンのアイデアはとても良いと思います。しかしツナ缶や瓶に入っているマヨネーズじゃなくてなぜ缶パンなのだろうということに今でも疑問に思います。でも、缶パンが非常食として役に立つのは確かです。

地震の最中、机の下に隠れるとしても日本の机のサイズでは自分の体に合わなくて、まるで紙袋に入ろうとして、顔だけ入って体が紙袋の外に出ている猫のような感覚でした。床が上下に揺れ、壁から物が落下し、周りの人達は叫び続けていました。私は以前に配布された缶パンを食べながら揺れが収まることを祈り続けました。しかし、まずい缶パンを食べ続けている最中、壁の揺れはなかなか収まりませんでした。地震が完全に収まった時には、缶パンは食べきっていて、1リットルあった水を半分飲み干していて、食べかすが周りに散らかっていました。

東北地方で津波が起きたというニュースを聞き、この震災がいかに大惨事か実感しました。最初に起きた大地震がこれほどまでの大惨事を起こすとは誰も思っていなかったでしょう。ラジオやテレビで見る津波の光景はあまりにも驚愕的な出来事でした。そして、社員全員がこの震災へ対応したことが「仕事に即座に戻ること」でした。大地震の後、余震が何度か来ましたが、ずっと仕事をし続けました。

終業時間になった時、電車が運行停止していて誰も帰宅できない状況でした。同僚は机で眠りにつくまで仕事に打ち込み続けました。私はオフィスを出て、近くの居酒屋で時間を過ごそうと思っていましたが、ほとんどの居酒屋やラーメン屋は満席や閉店していました。私はコンビニで食料などを買って、徒歩で帰宅しました。歩道には黒いスーツで歩いている人達がたくさんいて、歩道橋には階段を渡る人達が列を作っていました。タクシーも自動車も渋滞でなかなか動けない状況でした。バスに乗りましたが、ものすごい渋滞で20分に1回前に進むほど遅かったので、結局バスから降りて歩いて自宅に向かいました。

外は段々寒くなり、どの店にも帽子や手袋が売り切れていて、少しでも顔を暖かくしようと持っていたマスクを着用し、暖かい缶コーヒーをポケットにいれてホッカイロ代わりに使用しました。歩き続け、地図で道を確認し、誰かに道を訪ね、そして歩き続けました。どこかにランニングシューズか自転車が売っている場所がないかと探しましたが、結局見つかりませんでしたので、とんがった靴で歩き続けました。5時間歩いて池袋に着き、そのまま近くのバーに行き、ナッツとビールを口にして休憩して、再び約2時間程自宅まで歩きました。

自宅に戻った時、全体的建物は無事でしたが、かわらの一部が屋根から落下していて、家の中は落下したもので散らかっていました。洋服や本が部屋全体的に散らばっていました。しかし、洋服や本が散らかっていることはいつものことですので、全部地震のせいにはできないと思いました。

2011年3月、暖かい気候になり、桜が風に吹かれてとても綺麗でした。しかし、もう何百回かそれ以上続いているのではないかというほど余震はずっと続いていました。ニュースでは死亡者の報告がどんどん増えていて、福島原子力発電所の放射能災害がどんどん重大な事態になっていました。店には食料がない日が続いて、東京中が停電になっていました。しかし、なぜ日本はこんなにも美しい国なのに、恐ろしいことも起こり続けているのでしょう。

「二人の同僚を車に乗せて、信号が壊れている中で運転しました。信号が動かない中、日本人が事故なくお互い助け合って運転しているのには感心しました。」

神奈川県在住アメリカ人、女性、英語教師

3月11日の東日本大震災は私の人生の中で一番最悪な経験でした。

当時、現在の旦那と結婚して日本に引っ越して間もない頃で、まさかこんな自然災害が起こるとは予想もしていませんでした。

私は自宅の近くにあるインターナショナルスクールで英語の教師として勤務していました。当時、生徒達のおやつの時間に私と同僚2人は生徒達を保護しながらお話をしていました。そして地震が発生し、最初は普段のように大したことのない地震か気のせいかと思いました。そして揺れが大きくなった時、何も考えられませんでした。まず走りました。今思うと罪悪感でいっぱいですが、生徒達を置いて走りました。同僚は生徒達を連れていくように私を呼び寄せました。私は元にいた場所に戻り、生徒達を外に避難させました。地震後、私は物凄くパニックになっていたということに気付きました。

外に向かって歩いている最中にめまいがしました。同僚の1人が私の手を握りながら校庭まで連れて行ってくれました。全員校庭の真ん中で座って安静している中でも揺れは続きました。今まで経験した中で一番怖い思いをしました。生徒達は校庭で地面が揺れているのを楽しんでいました。数分後、何人かの生徒達の両親が迎えにきました。何人かの生徒達は両親達が仕事を終えて迎えにくるまで学校で待機していました。

その後余震が何度も起きて、兄(弟)の友達からスカイプで連絡がありました。彼はテレビで津波の様子を見て海の近くには行くなと言いました。私もテレビをつけて津波が陸を飲み込む光景を見ました。まさか大地震だけでなく津波まで来るとは思いもしませんでした。私たちが海の近くにいたらと考えるととても怖くなりました。スカイプで連絡が取れることを知れて少し安心しました。私はすぐにスカイプで兄(弟)に連絡をし、自分が無事であることを伝えました。その後スカイプで旦那にも連絡を取りました。そして私は仕事後に近所に住んでいる同僚の家に行くことにしました。

二人の同僚を車に乗せて、信号が壊れている中で運転しました。信号が動かない中、日本人が事故なくお互い助け合って運転しているのには感心しました。友達の家に到着した時、外で流れている放送を耳にし、テレビでどのニュースを見ても地図で日本の場所が色々な色で点滅していました。ニュースの言っていることが全く理解できずにイライラしました。

その日の夜に自宅に戻り、電車が運行するまで1人の同僚を家に泊めました。家で旦那が私の家族と話しているのを見て不安が和らぎました。

震災から2、3日後に悪夢はやってきました。海外メディアは福島原子力発電所の放射能災害の危険性について報道しているのにも関わらず、日本の政府はその件について曖昧なことに腹を立てました。いつでも外に出られるように私は毎晩ドアのそばで寝ていて、2階には決して行きたくありませんでした。3月15日に旦那に知らせずにニューヨークに帰国しました。その日の夜、旦那から連絡があり、ニューヨークに帰国したことについて怒らずに、それが一番良い方法だと言ってくれました。もし旦那がニューヨークに帰国するなと言ったとしても、なんとかして帰国したでしょう。空港に向かっている間は不安でいっぱいでとても怖かったです。高速道路には他の車が見当たりませんでしたが、空港には日本を去る人達でいっぱいでした。

「その日は動きやすい靴を履いていて、自宅までの道のりを知っていて幸いでした。妻は勤務先でその日1日中過ごしました。」

東京都在住アメリカ人、男性、語学専門家

当時、私は東京駅の近くの丸ノ内オアゾの中にある書店「丸善」の4階にいました。

大地震発生時、レストランのシャンデリアが激しく揺れているのが一番印象に残っています。外では線路にある棒がメトロノームのように揺れていました。私は何をしたらいいのか途方にくれていました。

寿司とパンを買って食べて、公衆電話で連絡を取ろうと思いましたが繋がりませんでした。夜の10時以降、電車の運行を待つのに疲れてしまい、渋谷から西へ向かって歩きました。

夜11時15分頃に、電車が運行し始め、自宅の最寄り駅から4つ目の駅で電車に乗りました。自宅に着いたのは真夜中でした。地震の影響でコーヒーメーカーが壊れてしまいました。その日は約15km程歩きました。

その日は動きやすい靴を履いていて、自宅までの道のりを知っていて幸いでした。妻は勤務先でその日1日中過ごしました。

「日本の建物は木造で軽く、燃えやすいですが地震の揺れには強いです。」

埼玉県三郷市在住ペルシア人

仕事が夜勤でしたので、震災が起きた当時は自宅にいました。息子も風邪を引いていたので家で安静にしていました。

地震発生時、家が大きく揺れて物が落下し、雷が近くに落ちたような音がしました。息子は震えながら出入口まで避難しました。私も息子と一緒に家の外に出て、パニック状態になっている息子を落ち着かせました。その後、妻に連絡を取ろうとしました。

携帯電話で妻に繋がりましたが、ネットワークの繋がりが悪く、話しにくい状態でした。私の勤務先では緊急時のメールシステムがあり、勤務先から私の安否を確認するメールが届き、私は無事だということを返信しました。普段と同じ様に仕事には出勤しましたが、余震のため緊急時のメールシステムが使用できなくなり、建物の一部が崩壊していました。崩壊した場所の清掃を少しして、いつもより早めに帰宅しましたが、福島原子力発電所の放射能災害についてのニュースを見た時不安になりました。

福島原子力発電所から200km離れている所にいるとはいえど、海の水は完全に安全ではありません。震災から2日後に雨が降り、首が濡れたことに苛立ち、帰宅して早速体を洗いました。大地震は恐ろしかったですが、ニュースが報道した30mもの長さの津波は大地震を上回るほど被害を及ぼしました。日本の建物は木造で軽く、燃えやすいですが地震の揺れには強いです。しかし物の落下には注意が必要です。

その後、ほとんどの店でペットボトルの水が売り切れ、今後の震災へ事前に対策をしておいた方が良いと思います。いつ起こるかわからない大災害に備えて準備をし、事が大きくなる前にお互いに助け合う。自然災害が起きた時にパニックにならないことが生き残れる鍵です。

2012年2月28日(火)更新 

「この大震災を通して、日本は私にとってとても大切な国だということに気付きました。」

静岡県浜松市に在住して現在ロンドン在住イギリス人、女性、英会話教師から現在イギリスで日本関連のチャリティー活動中

東日本大震災が起きた2011年3月11日、私は静岡県浜松市にいて、仙台市から約500km離れている浜松市でも地震が起きました。

建物がゆらゆら揺れて、船酔いになったかのように気分が悪くなりました。幸いなことに、その時生徒達はいませんでした。何日間もテレビやインターネットから目を離さずに、学校でもずっと東日本大震災の話題を話していて、学校内で何もなかったかのように授業することが悪いかのような環境でした。

4月に勤務先との契約が切れ、イギリスに帰国しました。クリスマスの時期になる前に帰国する予定だったのでしたが、周りの人達は震災が起こったがために帰国するのだと思っていました。私は震災が起きたからという理由で帰国しません。帰国予定がなかったら、むしろ東北地方でボランティア活動したいと思っていました。

イギリスに帰国後、日本から離れたことをとても寂しく思いました。震災の被害は受けませんでしたが、この震災がもたらした被害は大きいし、何か力になれることをしなければと思いました。そこで、イギリスを拠点とする日本とイギリスの友好関係の支援をするチャリティー活動に参加しました。直接、東北地方の被災者の支援はできませんが、イギリス中に素晴らしい日本の文化を広めています。今後の震災の支援ができるよう科学者や専門家を日本に派遣し、調査をしてもらっています。

「3月11日に起きた震災は忘れることのない思い出であり、例え小さなことだとしても自分を助けてくれた人々にとても感謝しています。」

新潟県在住ニュージーランド人、英語指導助手

東日本大震災が起きた当時、空を見上げた時にたくさんの鳥が一斉に飛んでいたことが一番印象に残っています。大地震を経験したのにも関わらず、たくさんの鳥が空を飛んでいるのを見て美しいと思っていました。

私の東日本大震災の思い出はこれといって選べないほどたくさんありすぎます。当時岩手県の南側にある金ヶ崎町に住んでいて、津波の被害に対して他人事だとは思えません。

自分に恐怖症があるとしたら、地震恐怖症だと思います。数年間も日本に住んでいると地震に慣れると思いますが、3月11日の大地震を体験してしまうと、地震になかなか慣れることができません。地震の揺れを感じると物凄く不安になりますが、誰かが自分の近くにいると少し不安が和らぎます。

3月11日に起きた震災は忘れることのない思い出であり、例え小さなことだとしても自分を助けてくれた人々にとても感謝しています。

「日本はどんな災害があったとしても生き続けます。私は日本でたくさんのことを学びました。」

アルメニア人、女性

まず、優しくしていただいた日本人の皆様に本当に感謝しています。私は仕事のために日本に来ていて、震災が起きた当時、会議が終わった後にエレベーターに乗ろうとしました。

最初何が起きたのか全く理解できなくて、とにかく建物の外に出ました。高層ビルが横に揺れているのを見て驚きましたが、ビルは崩れることなく無事でした。1988年にアルメニアで起きたマグニチュード6.9の地震では何千軒もの家や建物が崩壊しました。東日本大震災が起きた当時、驚きはしましたが、周りの人々が冷静だったので、恐怖心はありませんでした。日本は地震への対策がしっかりしているなと感心しました。

当時一番困難だったことはホテルへ帰る時の道のりでした。当時、ホテルまで徒歩6~7時間かかる場所にいました。次の日にアルメニアに帰国する予定でしたので、やむおえなくホテルまで歩きました。その時私はスーツを着て、ハイヒールを履いていました。途中でハイヒールで歩くのが苦痛になり、裸足でホテルまで歩きました。とても寒くて、疲れてしまい、それに気付いた周りの人々に優しくしていただきました。一人の女性からは帽子とマフラーをいただき、その時「ありがとうございます」と言えませんでしたので、彼女を見つけたら「本当にありがとうございます」と言いたい気持ちでいっぱいです。

ホテルまで歩いている途中で、あまりにも疲れて歩くのをやめてしまいたくなりましたが、気合いで諦めずに歩き続けました。途中で日本人の女の子からスリッパをいただき、バッグにチョコレートが入っているのを思い出し、それを彼女にあげました。他の男性から靴下までいただきました。

大地震が起きたのは本当に突然のことで、私や他の人々も驚きを隠せませんでした。しかし、こんな震災が起きた中でも日本人の人達はお互い助け合うことを決して忘れませんでした。こんなに素晴らしいことはありません。日本以外の国で、ここまで人々がお互い助け合っているのを見たことがありません。3月11日の出来事は決して忘れません。やっとホテルに着いた時、帰国予定が16日に延期になったことを知り、16日まで友達の家に泊めていただきました。

次の日、多くの日本人の人達が通勤していました。私は「バスも電車もタクシーも運行していないのにどうやって通勤するのだろう?」と疑問に思いましたが、自転車で通勤している人を多く見かけました。私は日本人の友達になぜこんな状況なのにも関わらずに日本人は仕事に行くのか尋ねました。友達は「日本の明るい将来に向けて皆仕事に行き続けるんだよ。」と答えました。

日本人の人達はどんな状況でも前向きな姿勢を見せ、日本の明るい将来に向けての希望を捨てずに頑張り続けています。日本はどんな災害があったとしても生き続けます。私は日本でたくさんのことを学びました。

「建物は揺れるけれども壊れないなんて、まるで映画かアニメみたいです。日本の建物の強さにはとても感心します。私の母国の建物も日本の建物ように強くしたいと思いました。」

アルメニア人、男性

3月1日に日本に来て、3月12日に帰国する予定でした。

11日に起きた地震によって予定通りに帰国ができなくて大変な思いをしましたが、同時に物凄くためになる経験をしたと思っています。大学で地震について学んでいましたので、地震についての知識は豊富ですが、その日に起きた大地震は自分の知識にはない経験でした。

大地震が起きた時、私は池袋にいました。最初何が起きたのか理解できませんでしたが、周りの建物が横に揺れていたのを見ました。周りの人達が冷静で、建物も崩壊しませんでしたので、恐怖心はありませんでした。日本の建物の耐震、免震の素晴らしい技術にはとても感心しました。建物は揺れるけれども壊れないなんて、まるで映画かアニメみたいです。日本の建物の強さにはとても感心します。私の母国の建物も日本の建物ように強くしたいと思いました。

アルメニアも日本と同様に地震が頻繁に発生しますが、アルメニアの建物は日本の建物のように強くないので、東日本大震災のような大地震が起きたら、アルメニアにあるほとんどの建物は崩壊してしまいます。日本で地震に関して学ぶことがたくさんあることに気付きました。日本から帰国後、私は東日本大震災の経験を皆に話しています。

日本に戻って、被災地の人々の支援や地震のことをたくさん勉強したいです。

2012年2月27日(月)更新 

「福島県は私の第2番目の家であり、福島原子力発電所の放射能災害なんてもう気にしていません。福島県で家族と一緒に住むことが私の唯一の望みです。」

ジュリエット・Mさん、福島県郡山市在住、英語教師

震災が起きたその日の早朝に、須賀川市から福島市まで車で通勤していました。大地震が起きる1時間前、その日の授業の予定を立てていました。私の携帯電話の緊急地震速報が鳴った時、普段起きている大したことのない地震だろうと思っていましたが、予想を絶する大きな地震でしたので、すぐに携帯電話と上着を持って建物の外に出ました。外では道にひびが入り、周りの人達が動揺していました。私は近くにあった車のサイドミラーに掴まっていました。

揺れている間、物凄い怖かったですが近くにいた男性が平気だとなだめてくれ、彼自身もとても冷静でした。彼の冷静さは私の恐怖心を和らげてくれました。揺れが収まった後に津波が来るとは知らず、何をすればいいのか分からずただ泣き続けました。須賀川市にある自宅に帰った時、部屋の中の物がほとんど倒れている状態でした。私はiPadだけを持って兄の家に泊まりました。余震が何度も続き、ずっと眠れない日々が続き、ストレスが溜まる一方でした。

5日後に福島を去ることになり、私の勤務先は福島県郡山市から車で約2時間の場所に変更になりました。そこで引っ越してすぐに福島県以外の場所で住むことがこんなにも大変だったことに気付きました。8年間も福島県に住んだ後、他の場所の環境に引っ越し、慣れることは簡単なことではありません。

6ヶ月後に福島県に戻りたいと思いましたので、福島県に戻りました。福島県は私の第2番目の家であり、福島原子力発電所の放射能災害なんてもう気にしていません。福島県で家族と一緒に住むことが私の唯一の望みです。

「このようなことを初めて経験し、自分自身が自然災害の一部になったような感覚でした。」

エヴェレット・マップさん、仙台市在住アメリカ人、教師/指導員

震災が起きた当時、私はクラブハウスにいました。大地震が起きた時、一緒にいた仲間と共に2つのビルに挟まれている歩道に出ましたが、ビルの窓が割れ、急いで近くのサッカー場まで避難しました。幸い私の周りで怪我人は出ませんでした。

吹雪の中を数時間歩き、やっと帰宅できました。そして私の婚約者が後から私の安否を心配して自宅を訪ねてきました。婚約者が来てすぐに私たちは婚約者の父親の家を訪ねに行き、彼が無事であったと知って安心しました。

その日は、家の裏にある風呂場から水を組み、トイレを流す代わりにその水を使用しました。このようなことを初めて経験し、自分自身が自然災害の一部になったような感覚でした。

現在、仙台市はこの悲惨な大災害から段々復興してきているのが目に見えます。日曜日には私の誕生日を迎えます。この震災の経験を通して学んだことが私の素敵な誕生日プレゼントとなるでしょう。

「被災地から離れたところに住んでいたことは幸いだと思いますので、その夜眠れなかったことなんて、被災地で被害を受けた人々に比べれば全く大したことありません。」

埼玉県在住アメリカ人、女性、英語指導助手(当時)

震災が起きた当時、帰宅準備をしていました。この震災を経験して以来、地震が起こる度に過剰に反応してしまいます。

建物が揺れ始めた時、私は近くにいた他の教師に「地震?」と尋ねました。揺れだ段々強くなった時、私は自分の机の前に立ち続け、夢を見ているのではないかと唖然としていましたが、棚からカップや皿が落下して割れるのを見てすぐに机の下に避難しました。

数分後、私は廊下に出て近くにいた3人の6年生の男子生徒の無事を守りました。この時の地震のマグニチュードを携帯電話で確認しようと試みましたが、インターネットに接続できませんでした。一緒にいた3人の男子生徒の1人が私の携帯電話を見て、「俺と同じ携帯だ」と言い、一瞬地震のことを忘れ、彼らとの会話を楽しみました。

その後、校内にいた全員校庭に避難しました。生徒達はまだ小学生なので、泣いている生徒達がたくさんいました。地震でバスケットリングが揺れているのを見て、横揺れの地震はまるで波の上にいるような感覚でした。数時間後、生徒達の両親が迎えにきました。5年生の男子生徒はお母さんが死んだのではないかと心配して泣いていたので、彼の友達と一緒にお母さんは無事だよと励ましました。

ほとんどの生徒達が帰宅した後、校内に戻ってテレビのある部屋で、津波の様子をテレビで見ました。この震災がここまで一大事になるとは思ってもいませんでした。

その日の夜は余震が何度も続き、1時間に2、3回くらい携帯電話の緊急地震速報が鳴り続けていましたので、寝るために携帯電話の電源を切りましたが、市内の緊急地震速報のアナウンスが繰り返されてなかなか眠れませんでした。被災地から離れたところに住んでいたことは幸いだと思いますので、その夜眠れなかったことなんて、被災地で被害を受けた人々に比べれば全く大したことありません。

今でもずっと被災された人々の幸せを祈り続けています。

2012年2月24日(金)更新 

「日本で素晴らしい時間を過ごした後、フランスから力になれないことが本当に悔しいです。」

フランス人、男性、36歳、家具職人兼コンピュータ支援設計者、映画監督

2週間の日本旅行からフランスに帰国したばかりの時に、東日本大震災が起きました。日本が大好きで、当時3度目の来日でした。

日本でこんな悲惨な出来事、特に福島原子力発電所の放射能災害が起きたことが今でも信じられません。ちょくちょくテレビのニュースで震災時の日本の状況を確かめていました。日本にいる日本人とフランス人の友達に当時の日本の様子を尋ねました。過酷な環境にいる彼らを心から応援していました。

日本に来た時に暖かく迎えてくれた日本の人々が、今回の震災で被災されたと考えると心が痛いです。日本で素晴らしい時間を過ごした後、フランスから力になれないことが本当に悔しいです。

震災後、9月中旬から12月中旬までの3ヶ月間、就職活動のために日本に戻りました。広島県と大阪府で何人かとても良い友達に出会い、また日本に戻ってきた時に彼らに再開したいと思っています。

日本人はとても強い精神を持っています。私は日本人の精神の強さに感動をしました。いつか日本に戻ったら、日本で仕事をして、生活をして、この美しい国と国民の力になりたいと思います。

みなさん気をつけて、ぜひまた会いましょう。

「私はよほどのことがない限り、日本に在住し続けることに決めました。日本でお世話になった人達を置いて帰国することなんてできませんでした。」

千葉県市原市在住イギリス人、男性、英語教師

自分は運が良かった一人だと思います。地震は怖かったし、不便なことも多少ありましたが、地震による大きな影響はありませんでした。当時、私は東京に引っ越したばかりで、千葉県市原市まで1週間に5日通勤していました。市原市は石油製油所で爆発が起こった場所です。

授業で生徒さんに英語を教えている時に地震がきて、皆「あ、地震だ」と言い、授業が一旦中断になりました。今まできた地震は小さかったのがほとんどで、ここまで大きな地震がくるとは誰も思わなかったでしょう。最初の揺れは小さく、すぐに収まるだろうと思いました。揺れが段々大きくなり、なかなか収まらなかった時、特に年上の女性の生徒さんのことを心配しました。私は窓とドアを開け、同僚とマネージャー、ビルにいる人達全員を避難させました。

外に出て、最初の余震を感じた時に私たちはバランスを崩さないために何かに掴まっていて、周りの高層ビルが揺れて恐ろしい音を立てているのを目の当たりにしました。周りの人達はあまりの怖さで叫んでいました。何度も何度も両親と東京にいる彼女に電話を掛けようと試みましたが、電話回線が混雑し繋がりませんでした。東北地方出身の同僚も東北地方にいる両親の安否を確認しようと何度も連絡を試み、やっと連絡が取れた時には一時ほっとしていましたが、彼女はとても不安だったと思います。その後、石油製油所での爆発を目の当たりにしました。

私の彼女はその時大学の卒業式に出席していて、震災後、都内にいるにも関わらず帰宅できませんでした。東日本大震災が起きた次の日、例えどんな長い距離を歩こうが東京に帰宅することを決心しました。私のマネージャーは私が東京にいることを知ったらとても怒っていました。

震災から2、3日が経った頃、BBCや他の海外のメディアが福島原子力発電所の放射能災害について報じられたのを見て恐ろしくなりました。私の彼女は海外メディアの報道を気にせず、大丈夫だと励ましてくれました。私はよほどのことがない限り、日本に在住し続けることに決めました。日本でお世話になった人達を置いて帰国することなんてできませんでした。

私と彼女はコンビニで入手した物は常に被災地にいる人達に届け、贅沢に暖房を付けず、自分達の運が良かったことを感謝し続けています。

「日本人の人達なら復興できて、再び元の平和な生活が送れることを信じています。」

匿名

私はアメリカ合衆国から日本に5週間旅行に来て、東日本大震災が起こる前日に帰国しました。シカゴに到着した朝に悲惨なニュースを耳にしました。東京などの日本国内で素晴らしい時間を過ごしたばかりで、私の中で日本という国はとても思い入れが強い国でした。私は日本と日本人の人達が大好きです。なので今回の東日本大震災で被害を受けた日本人の人達を思うと心が痛いです。今でも日本にいる友達がどうしているか心配です。

日曜日には東京に戻る予定で、自分が素晴らしい経験をした思い入れの深い国に戻って来れると思うととても嬉しいです。復興が進んで段々回復していることを願い続けていいます。また、日本人の人達なら復興できて、再び元の平和な生活が送れることを信じています。

「私がいたビルはゆっくりと大きく揺れ、船が大きく揺れているような感じでした。」

東京都練馬区在住スウェーデン人男性、自営業

自宅から30km~40km離れている新横浜のビルの16階で会議を行っている時に、最初の大地震が起こりました。私がいたビルはゆっくりと大きく揺れ、船が大きく揺れているような感じでした。数分続いた地震が収まった後、会議に参加していた社員とこの後どうするかを話し合っている時、余震が来て18階建てのビルは大きく揺れました。

会議を中断し、大きな揺れでビルが崩れないか心配しながら階段で下に降りました。階段を降りている時、他のビルがまだ無事であるのを見て、このビルが一番最初に崩れないよう願うばかりでした。大きな揺れの中必死に階段を降りている時はこの揺れが永遠に続くのではないかと心配でした。

「私は近くの柱に捕まりバランスをとっていました。15分後、私と一緒にいた3人の女性とともに1階まで降りました。」

埼玉県在住バングラデシュ人女性、大学生

昼食を食べ終わって9階の実験室に来て5~7分後に最初の大地震が来ました。

最初は大丈夫だろうと思いましたが、揺れが長時間続き、棚の上にあった化学製品が揺れ始め、すぐに実験室を出ました。実験室には私と3人の女性がいました。私は近くの柱に捕まりバランスをとっていました。15分後、私と一緒にいた3人の女性とともに1階まで降りました。3歳の娘は私の通っている大学の近くにある保育園にいて、保育園の生徒達はお昼寝をしていました。(その時は午後3時くらい)埼玉にあるほとんどのショッピングモールには乾燥食品がほとんど売れ切れていました。

私と娘は埼玉を離れ、3月16日に九州に引っ越し、4月2日に埼玉に戻りました。日本にいる全ての人達が無事であることを願い続けています。

「地震が起こったのは私がタクシーにいて、タクシーが少し揺れた時、エンジンの調整が必要なのではないのかと思っていました。」

名古屋市在住、トム・Bさん

私は名古屋に住んでいて、週末にはバンド活動をしています。

当時、私はニュージーランドのクライストチャーチのカンタベリー地震の被災者のためのチャリティーコンサートに向けてバンドの演奏練習を行っていました。地震が起こったのは私がタクシーにいて、タクシーが少し揺れた時、エンジンの調整が必要なのではないのかと思っていました。その夜に行われたチャリティーコンサートで誰かが日本で大地震が起きたことを知らせてくれました。皮肉な出来事だと思いました。

東日本大震災は本当に悲しい出来事で、またニュージーランドで起きたカンタベリー地震から注目が東日本大震災にすぐ移りました。両方とも、同じ時期に起こったことが本当に不幸な出来事だと思います。

「彼に電話をし、日本を去る前に会うつもりでしたが、彼はただ「去ってくれ」と私に言い、彼に会わずに日本を去りました。私はずっと泣き続け、何も食べられませんでした。」

山形市在住アメリカ人、女性、英語指導助手

当時、私は中学校に勤務していて、生徒達の清掃時間に私は職員室にいました。地震が起こり始めた時、3日連続で地震が来るなと思っていました。そして揺れが強くなり、なかなか収まりませんでした。他の教師達は生徒達に机の下に隠れるかその場で座り込むよう命じていました。私は他の生徒の机の下に避難しました。その時、地震を怖くないと思うようにしていました。生徒達は恐怖におびえていましたので、自分が怯えている姿は見せられませんでした。強い揺れの中、ピンポンのボールが入ったバスケットが転倒し、沢山のピンポンボールが廊下を跳ね上がり、停電が起こりました。外を見た時に電柱が不自然に動いていて、外を見ないようにしました。地震が収まった時、校内にいる全員が体育館に集まり、他の教師達と私は廊下に転がっているピンポンボールを回収しました。体育館はとても寒く、外はもの凄く滑稽で全てのドアが開放されていました。

皆、コートも暖かい物も着用していなかったです。私は彼氏にメッセージを送りました。近くにいた教師が東京で火事が起こったニュースを話していました。その時、東京で火事が起こったと私の両親が聞いたらもの凄く心配するだろうと思いました。私の彼はフェイスブックで私が無事であることを知り、私は彼に私の両親に連絡するように頼み、連絡をしてくれました。私は生徒達を家に帰し、他の教師が私を彼の家まで送ってくれました。

その後、津波のニュースを聞きました。土曜日まで停電していたので津波のニュースを聞いた時は大地震が起きた次の日で、津波がもの凄く恐ろしい被害を及ぼしたことを知りました。日曜日、両親とスカイプで連絡しました。月曜日、福島原子力発電所の放射能災害が大きなニュースとなりました。節電のため、ほとんどの店が閉店していて、スーパーとコンビニには食べ物が全て売り切れていました。両親は放射能災害を心配し、生徒達の卒業式には出席せずに帰国するように言いました。17日に休日を取る予定でしたが、全ての電車は運行していませんでした。卒業式には出席して、2年間お世話になった生徒達と教師達に会いました。近くにいた教師が成田空港まで行くことが難しいことを聞き、新潟駅まで行く電車が運行している駅まで送ってくれることになり、新潟駅から東京駅まで行けることを教えてくれました。まず、その教師は私の家まで送ってくれ、荷造りを手伝ってくれました。私は3枚のブランケットと電化製品を荷造りし、私のアパートの鍵をその教師に彼に届けるよう、また帰国前に彼に会いにいくと伝えるよう頼みました。彼に電話をし、日本を去る前に会うつもりでしたが、彼はただ去ってくれと私に言い、彼に会わずに日本を去りました。私はずっと泣き続け、何も食べられませんでした。

アメリカでは、ストレスと日本から逃げたという罪悪感でいっぱいでした。日本が震災時からもとに戻っているというニュースを聞き、5ヶ月後に彼はアメリカに来て、一緒に日本に戻りました。

震災で学んだこと
震災中、震災後の私の対応には誇りを持っています。また日本の人々の前向きな姿勢に感心しました。

「窓の外を見た時、風に揺れる花のように木が大きく揺れていたのを覚えています。その時に地震が起きていることに気づきました。」

東京都在住カナダ人、男性、経営管理士

東日本大震災が起こった時のことは今でも覚えています。神奈川のビルにいた時に揺れを感じました。最初何が起こったのかわかりませんでした。ビルの近くで大きなバスかトラックが走っているのかと思いました。しかし私の同僚はすでにそれが地震だということをわかっていました。揺れている最中、同僚は辺りを見渡してその場でしゃがみ込みました。私だけがずっと立ち続け、辺りを見渡して何が起こっているのか混乱していました。窓の外を見た時、風に揺れる花のように木が大きく揺れていたのを覚えています。その時に地震が起きていることに気づきました。

揺れが永遠と続くのではないのかと思いました。周りの人々を落ち着かせ、揺れが収まった後、地震によって散らかった物を片付るのを手伝いました。片付けを手伝っている時に忘れられないのは、下の階に下りた時に、金魚が入っていた水槽が転倒していたことです。小石、植物、水、そして命を失った金魚達が廊下中に散らばっていました。

片付けを終え、他の同僚達と一緒にオフィスにあるテレビをつけました。チャンネルを変える必要はなく、テレビの中ではヘリコプターが上空から地上の様子を写し、何かが動いているのを見ました。大量の水が畑を飲み込んでいるのです。同僚が私に説明しなくても、津波が起きていることをすぐに知りました。津波が地上を飲み込む様子は誰が見ても恐ろしいものでした。

世田谷にある自宅まで神奈川から8時間掛けて歩きました。自分に被害がなかったことが本当に幸いですが、津波の被害を受けた被災地の人達が心配です。

「日本は震災からの立ち直りの早さ、助け合いの精神が他のどの国よりもあります。私は日本人ではありませんが、日本人みたいにならなければならないと思っています。」

東京都田町在住、匿名

2011年3月11日14:30に田町で会議を始め、14:46に地震が起きました。最初は普段と変わらず大したことのない地震だろうと思って会議を続けていたら、揺れは大きくなり、長時間続いたので、これは大変だと思い、非常階段を使ってビルの外に出ようとしました。幸いなことに私たちは3階にいたので苦労なくビルから出られましたが、上の階から瓦礫が私たちに向かって落下してきたのを今でも忘れられません。ビルから出られたことが本当に幸いだと思います。非常階段を降りている時は大丈夫だろうと思いましたが、東京にあるほとんどのビルが揺れているのを見て、人類滅亡の時がついにきたのではないかという錯覚に陥りました。

辺りのビルは歪み、私たちがいたビルは隣のビルと衝突しました。天気はとても春が来たとは思えない程悪かったです。当時、会議のためにスーツを着用していて、バッグとマフラーしか持っていなくて、手袋もコートも着用していませんでした。地震の後、空の様子が不気味になり、カラスは一斉に飛び、日が早く沈んで気温が下がりました。田町駅から品川駅に行く途中、出エジプト記を思い出させる光景でした。人混みがもの凄く、皆寒さに凍えて、買溜めで品物がなくなったがために空腹の人もいて、JRの電車はその日ずっと運行していませんでした。

その日は小さな余震が頻繁にありました。新宿のオフィスに帰ろうとしましたが、ほとんどの交通機関が停止していたため無理でした。品川付近の居酒屋を見つけ、そこでご飯を食べました。余震が続いていたとはいえ、そこは暖かくて幸せな一時が過ごせました。

その日の夜に大江戸線が運行を再開したと聞き、すぐに大江戸線の駅に向かい、電車に乗りました。大門駅に着いた時は、もの凄い人混みでした。

私は閉所恐怖症なので人で圧縮されている電車の中で息切れし、出口と書いてある場所に友達と共にすぐに向かいました。そしてバスで渋谷まで行きました。普段30分で行けるところまで2時間くらい掛かりました。

寒い中、長時間空席のタクシーを待ち、やっとタクシーがつかまり、朝の6時くらいに新宿に着きました。

そして、午後1時には埼玉の自宅まで電車で帰れましたが、自宅は地震の影響で物が散らばっていました。放射能災害の不安でいっぱいで、水は1人1個までという制限があり、節電など本当にストレスが溜まり続けました。

このような災害があったとしても何とかして生きなければなりません。日本は震災からの立ち直りの早さ、助け合いの精神が他のどの国よりもあります。私は日本人ではありませんが、日本人みたいにならなければならないと思っています。

「東日本大震災での経験は自分自身を見つめ直す機会でもあり、どんな問題にも臨機応変に対応できる強さを持てたと思います。」

神戸市在住オーストラリア人、男性、教師

東日本大震災が起こった時のことは今でも忘れられません。当時、カヤック(小舟)を買ったばかりで彼女や他の友達と共にカヤックで宮島まで航海していました。餌も付けていないのにたこが釣れました。地震が来た時にカヤックがもの凄い勢いで揺れ、ひっくり返り、私たちは水の中に落ちました。

これが大きな地震が及ぼす被害だと思います。友達は200ドル(約2万円)もした釣り竿を海に落として失くしましたが、釣り餌の虫のほとんどは無事でした。私たちはカヤックを元に戻し、盛大な仏教式の結婚式を予定している宮島まで向かいました。

この地震が及ぼした被害は私たちが乗っていたカヤックをひっくり返しただけではありませんでした。その日の夜にコンピューターでNHKのニュースを見てかなりショックを受けました。東北地方でカヤックショップを経営していた友達も震災時にカヤックに乗っていたのです。その友達は日本の様子が安定するまでカヤックに乗るのは止めておいた方がいいことを伝え、ショップにある全ての物を復興のために被災者に寄付し、その話を聞いた時は感心しました。

震災で学んだこと
当時は大変でしたが、東日本大震災での経験は自分自身を見つめ直す機会でもあり、どんな問題にも臨機応変に対応できる強さを持てたと思います。

「この東日本大震災の経験を通して医者になることを決め、自然災害の中、またそれ以外でも助けになれたら良いなと思います。」

茨城県在住アメリカ人、女性、英語指導助手

当時、私は授業で生徒達と立ちながらゲームで遊んでいました。地震が起き始めた時、普段の小さな地震と変わらないだろうと思いつつ、万が一のためにクラスルームのドアを開けました。揺れが大きくなった時、地面がよろめき、生徒達に机の下に避難して安静にするよう呼びかけました。

教師達も同じく机の下に避難しましたが、私は机の下に避難しませんでした。(その時揺れが強くて歩けませんでした。)物が床に落下し、クラスにあるテレビも落下しました。何人かの生徒達は動揺していましたが、生徒達の多くはこの状況の中でも強く耐えていました。揺れは6分間続いてやっと収まり、私たち全員無事でした。

その後、教師達は生徒達を校内から外へ避難させ、私たちも外に避難しました。(私たちは沿岸側の街に住んでいましたので、津波の恐怖は非常に身に染みました。)私たちが外にいる時に大きな余震が2回来て、木が大きく揺れたのを今でも忘れられません。結局私たちは屋上に避難することになり、長い間海を見ていました。その時は言葉にならない程の恐怖を経験しました。

津波は何軒かのビルと水道に被害を及ぼしました。一番大変だったのはその日の夜、停電の中ずっと一人でいたことで、余震にずっと怯えるばかりでした。この大地震は今まで経験した中で一番怖い地震でした。この経験を通して日本の人々は本当に誠実で強く、生徒達と教師達の優しさには心を打たれ、ずっと忘れません。

彼らに感謝しても感謝しきれない気持ちでいっぱいです。

震災で学んだこと
この東日本大震災の経験を通して医者になることを決め、自然災害の中、またそれ以外でも助けになれたら良いなと思います。日本の人々の助けになりたい気持ちが強く、当時力になれなかった私を助けてくれた人々に恩返しをしたいです。

「私の婚約者(日本人)の両親は、娘を外国人と結婚させることに戸惑いを見せていましたが、私が震災後に日本に戻ることで、どれだけ彼女を愛しているかをご両親に証明できました。」

岩手県釜石市在住アメリカ人、英語指導助手

アメリカ人の英語指導助手として2010年8月まで釜石市に住んでいました。3月11日の東日本大震災が起きた時に私はミルウォーキー市にいて、3月14日に日本にいる私の友達と婚約者を心配してアメリカを去り、日本に向かいました。共に日本に来た友達と3月19日に釜石市に到着し、震災からの復興活動の手伝いをしました。被災者のために料理をしたり、病院の掃除をしたり、瓦礫の掃除をしたり、ほとんど毎日復興活動に取り組みました。友達は家族が病気になったため、帰国しなければなりませんでしたが、私は4ヶ月間釜石市に残りました。

私の婚約者(日本人)の両親は、娘を外国人と結婚させることに戸惑いを見せていましたが、私が震災後に日本に戻ることで、どれだけ彼女を愛しているかをご両親に証明できました。私の婚約者は釜石市の栄養士で被災者達の栄養失調の問題の解決に取り組んでいて、私も彼女の手伝いをし、料理や掃除をしました。

私はそこに長い間滞在し、数えきれないほどの思い出が沢山あります。私の友達、同僚が無事であることを知って本当に良かったです。

「前向きに考えるしかないのではないのかなと思います。」

東京都在住イギリス人、男性、教師

東日本大震災が起きた時の日本人の精神は今でも忘れられません。:

「夜は真っ暗にはならない、星がこんなに綺麗なものだと今まで気付かなかった。仙台、上を見て、頭をもっと上に向けて。」

3月11日に起きた沢山の出来事は今でも忘れられません。ビルからの避難、何千人もの人達と一緒に新宿から4時間かけて帰宅したこと、帰宅途中に教会に立ち寄って、暗い教会の中で他の人と一緒に当時起きた大地震の経験を通して自分を見直しました。

前向きに考えるしかないのではないのかなと思います。

「生徒達を避難させ、私たちは他のスタッフが建物に異常がないかどうか確認している間、寒い中、外で立ち止まっていました。」

栃木県在住アメリカ人、男性、教師

14:50に授業がもうすぐ終わる時に大地震が起きました。小さな揺れが起きた時、生徒達にクラスルームに戻るように呼びかけました。生徒達がクラスルームに戻った時、揺れが段々強くなり、生徒達の叫び声を耳にし、床が激しく揺れ、サイレンが鳴り始めました。

机や棚に置いてあった物が落下したのを見てとても驚きました。すぐに建物の外に避難するように呼びかけられ、この大地震に私はショックを隠しきれませんでした。

生徒達を避難させ、私たちは他のスタッフが建物に異常がないかどうか確認している間、寒い中、外で立ち止まっていました。そして建物の中に戻った後、テレビを付けて津波が陸を飲み込んでいる様子を見て、驚きを隠せませんでした。そしてすぐに停電になり、その日の夜は暗く寒い中で時間を過ごしました。

一番最悪だったのは灯油が切れて暖房が使えなかったことです。2000円のガソリンと10リットルの灯油を購入するために1時間も並びました。食料も不足していて、ペットボトルの水もない、弁当もおにぎりも何もかも売り切れている状態でした。

この経験を通して色々なことを学べたことは良かったですが、東北地方の被災者の人々がどのような生活を送っているかを考えると胸が痛いです。私の周りの人達は被災地に出向き、津波によって行方不明になった人達を探し続けています。また、彼らの行方不明になった親戚を今でも探し続けています。

「今は福島に戻って、2軒の小学校で教師をしています。未だに東日本大震災が及ぼした被害は目に見えますが、確実に回復に向かっていることは事実です。」

福島県在住アメリカ人、男性、30歳、公立学校英語教師

3月11日金曜日は、日本中の多くの中学校にとって卒業の日です。私は朝会が終わって午後はゆっくりしていました。

大地震が起きた時、3階にある自宅にいました。日本で沢山の地震を経験していて、大抵の地震は15〜30秒で収まりますが、当時の地震は段々揺れが大きくなっていきました。私はその場で座っていることが怖くなり、この建物が無事でいられるかどうか心配になりながら、床に落下した物を見続けました。

この地震後、インターネット、電話、ガスが使えなくなりました。山奥にある何もない別荘に取り残されたような気分でした。翌朝にインターネットが使えるようになり、心配してくれた人達全員に自分の安否を伝えました。でもこの時、もっと恐ろしいことが起こることを知りもしませんでした。自宅の近くにあった福島原子力発電所の放射能災害が大きな事件となりました。私はすぐに避難するように呼びかけられましたが、行く宛がどこもありませんでした。日本の家族の優しさで、私はその場から避難することができました。

白河市のその家族の場所に3週間滞在させてもらいました。水もなく、自動車のガソリンも10リットルもありませんでした。携帯電話は全く使えず、スーパーには品物がほとんどありませんでした。私たちは外に出ないように呼びかけられました。電車も高速道路も運行停止していて、余震が最初に起きた大地震も思い出させ、怖い思いをしました。春と夏に新潟県に引っ越すまで普通の生活に戻ることができませんでした。

今は福島に戻って、2軒の小学校で教師をしています。未だに東日本大震災が及ぼした被害は目に見えますが、確実に回復に向かっていることは事実です。学校の校庭には放射線検出器が設置してあります。私は生徒達と一緒に福島に残ることに決めました。子供達の笑顔が見られるよう、精一杯努力していきたいと思います。

福島、がんばって!!!

「仙台市は震災が起きたとは思えないほど美しい場所で、皆お互い助け合っています。頑張って日本!」

仙台市在住イギリス人、教師

震災時、私は12階にある友達の家にいて、400リットルの湯沸器が落下したため、出入口が塞がれました。

本当に建物が崩れるのではないかと思い、誰かが中に入れてくれるまで裏口のドアを叩き続けました。水浸しになった廊下を歩いている時、11階の壁に裂け目が所々にあるのを発見しました。

やっと建物の外に出られた時、タクシーで津波が来る場所から数マイルある彼女の家まで向かいました。ある場所から煙が出ていて、夜になってもサイレンがずっと鳴り続けていたのを覚えています。

数日後、2分に1度くらい頻繁にCH-47チヌークと呼ばれる航空機が飛んでいるのを見かけました。生活用品や食料が不足していて、1人5つまでしか食料を供給されませんでした。パンとカップラーメンを食べるために5時間も列に並びました。車に乗っている人は1日中ガソリンの供給を待っていました。

この経験を通して、自分はなんて幸せなのだろうということに気づけました。

仙台市は震災が起きたとは思えないほど美しい場所で、皆お互い助け合っています。
頑張って日本!

「同僚は私が見つけられなかったパンを買って渡してくれて、私はありったけの米を皆に分けました。こんなにたくさんの人達に優しくしていただいたことは一生忘れません。」

埼玉県在住アメリカ人、女性、英語指導助手

当時、私は埼玉県の中学校で英語指導助手として勤務して2、3ヶ月くらいでした。他の生徒達が1階にある体育館で卒業式の練習をしている間、1年生の担当の教師と一緒に5階で1年生の授業に参加していました。

授業が始まって2、3分後に地震が起こり始め、生徒達が動揺し始めました。私はこのような状況でも安静に対応しなければならないと思い、生徒達の無事を守ることに専念しました。なんとか帰宅するまで冷静でいられました。自転車で勤務していましたので、幸い帰宅には困りませんでした。

誰もいない静かな外の光景は怖かったです。帰宅後、携帯電話が通じずに彼の安否が分からないことは本当に不安でした。幸いなことに、後から彼も自転車で無事帰宅できたことを聞けて良かったです。私と彼は眠りに着くまでソファーでニュースを見続けました。

その時死者が6人出たというニュースを聞き、これ以上死者が出ないことを願いましたが、数時間後に想像を絶するほどの恐怖が襲ってくるとは思ってもいませんでした。日本にいることが怖いとも思いましたが、それ以上に日本で私を支えてくれている人達を取り残すことなんてできません。

勤務先の人達は非常に協力的で元気を与えてくれました。同僚は私が見つけられなかったパンを買って渡してくれて、私はありったけの米を皆に分けました。こんなにたくさんの人達に優しくしていただいたことは一生忘れません。この悲劇によって私がどれだけ日本と日本の人々が大好きか理解できました。

「この大震災の中、日本人の前向きさには感動しました。残念ながら私は放射能災害の影響で帰国しなければなりませんでしたが、また日本に戻りたいと思います。」

千葉県銚子市在住アメリカ人、男性、パソコン教師

東日本大震災が起きた日、私は無事に家に帰れたことを幸いに思っています。

地震が起こり始めた時、普段と同じ大したことのない地震だろうと思っていました。揺れが段々強くなった時、隣の部屋で工事を行っていた人達は屋上まで登ったり近くのバルコニーまで避難しました。幸い、怪我人が出なくて良かったです。

停電になった後、街中に火事が起き、交通事故も頻繁に起きました。信号がない所で何人かの歩行者が車にひかれそうになったのを目撃しました。全ての自動販売機は動かず、夜は真っ暗で歩きづらかったです。海の近くにいる時は津波がいつ来るのではないかと不安で仕方がありませんでした。しかし、銚子市はそこまで酷い被害はありませんでした。

この大震災の中、日本人の前向きさには感動しました。残念ながら私は放射能災害の影響で帰国しなければなりませんでしたが、また日本に戻りたいと思います。

「日本でお世話になった人達に再開できるのをとても楽しみにしてます。」

スティーブ・Mさん

私は南三陸町にある志津川高校で英語指導助手として勤務していました。

東日本大震災の思い出を語ると物凄く長くなりますが、今でも当時の出来事は忘れられません。私は今アメリカ合衆国に帰国していて、日本にまた戻り、志津川高校でお世話になった生徒達の卒業式に出席するつもりです。

日本でお世話になった人達に再開できるのをとても楽しみにしてます。

「震災前、日本人に英語を教えるために日本に行く予定でしたが、震災後、なおさら日本に行かなければと思いました。」

アメリカ合衆国在住アメリカ人、女性、学生

私の友達がオンライン上で日本で大地震が起きたことを知らせてくれました。

最初はそこまで大したことないだろうと思っていましたが、朝4時にニュースを見て、日本にいる親友や彼の家族が心配になり、その日はずっと眠れませんでした。

その時日本にいなくても、この震災のことは決して忘れません。震災前、日本人に英語を教えるために日本に行く予定でしたが、震災後、なおさら日本に行かなければと思いました。

日本で少しでも力になれたらいいなと思います。

「東日本大震災は物凄い悲劇をもたらし、今自分がここにいられることが幸せに思います。日本人の前向きさと助け合いの精神がある限り、日本はすぐに回復すると信じています。」

ジェラルド・ヴァン・Sさん、オランダ人と日本人のハーフの子供2人と一緒に住んでいる40歳の父

私が日本に滞在してまだ1週間の時に地震が起きました。人生初めて地震というものを経験したので怖かったですが、この経験を通して少し強くなれたと思います。

揺れが強くなった時、外に避難して揺れが収まるまで待機していました。その時は大地震だけで済むだろうと思っていましたが、テレビをつけた時、津波が家や人々を次々に飲み込む悲劇的な光景を見ました。

東日本大震災は物凄い悲劇をもたらし、今自分がここにいられることが幸せに思います。日本人の前向きさと助け合いの精神がある限り、日本はすぐに回復すると信じています。

より多くの体験談が英語で書かれています。 翻訳に時間がかかりますので、英語版で読みたい方はこちらからご覧ください。

また、2011年3月にいただいた「それでも残ると決めた外国人からの応援メッセージ」はこちらからご覧ください。

いまこそ、日本にちからを。

KIBOWプロジェクト
グロービス代表の堀氏を中心とした日本の中堅・若手リーダーが集い、日本復興に向けて活動するプロジェクト。
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東日本大震災ボランティアページ
募金、ボランティア、支援物資の送り方などを英語でまとめました。
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